ジョジョとRPGと将棋との三つについて
2009年11月23日昔知り合いと話したことを思い出した。
それは『ジョジョの奇妙な冒険』で時をとめるという概念がよくわからないという話だった。
あれに磁石の反応で腕が少し動く描写があるのだが、あの作品を見る限り、時を止めるという概念は物体が停止するという意味に見えると知り合いは言った。
だとすれば、磁石の反応で物体が動くのはおかしいのではないかという話だった。
確かによく考えるとそのとおりだった。
それでいくとRPGで仲間を蘇らせる魔法なんかがあるのだけれど、それは死の否定になるね。
でもラスボスキャラは封印される、だとか異次元に飛ばされるとかじゃなくて、結構倒した、みたいな表現で終わる作品がある。
年を食って考えてみると、いやいや復活できるだろと邪推してしまうのだ。
FF7なんかでエアリスというキャラ死んじゃうけど、アレイズできないの?とか今になると考えてしまう。
近年結構人の死や病気なんかを主題に挙げていく小説とかゲームとかがあるけど、魔法という概念をぶつけてしまうと、全く死に対する味がなくなっちゃう。
結局話の盛り上がりとか世界観とかを優先した挙句の果てにそんなところに行き着いた結果だ。
ゲームだからだとか小説だからとかそういう安易なことは言ってほしくはないけど、そういう言葉でしか言い返せない。
うーん、悲しみがあるなー。
将棋はそういうことから考えると、かなり結果ありきだ。
要するに詰ませればいいわけだから。
その過程がいかに不味くても。
過程を経ずして結果は出ないと同時に、過程がいかにお粗末でも結果さえ良ければ、まぁ何とかなる。
だけれども、勝負するレベルが上れば上がるほど、過程がお粗末じゃ勝負にならない。
ごまかすな、と言われてるかのように、一つ一つが繊細になる。
過程がどんどん上等なものになる。
世の中の色々な物事って結局そういう方向のような気がする。
それは『ジョジョの奇妙な冒険』で時をとめるという概念がよくわからないという話だった。
あれに磁石の反応で腕が少し動く描写があるのだが、あの作品を見る限り、時を止めるという概念は物体が停止するという意味に見えると知り合いは言った。
だとすれば、磁石の反応で物体が動くのはおかしいのではないかという話だった。
確かによく考えるとそのとおりだった。
それでいくとRPGで仲間を蘇らせる魔法なんかがあるのだけれど、それは死の否定になるね。
でもラスボスキャラは封印される、だとか異次元に飛ばされるとかじゃなくて、結構倒した、みたいな表現で終わる作品がある。
年を食って考えてみると、いやいや復活できるだろと邪推してしまうのだ。
FF7なんかでエアリスというキャラ死んじゃうけど、アレイズできないの?とか今になると考えてしまう。
近年結構人の死や病気なんかを主題に挙げていく小説とかゲームとかがあるけど、魔法という概念をぶつけてしまうと、全く死に対する味がなくなっちゃう。
結局話の盛り上がりとか世界観とかを優先した挙句の果てにそんなところに行き着いた結果だ。
ゲームだからだとか小説だからとかそういう安易なことは言ってほしくはないけど、そういう言葉でしか言い返せない。
うーん、悲しみがあるなー。
将棋はそういうことから考えると、かなり結果ありきだ。
要するに詰ませればいいわけだから。
その過程がいかに不味くても。
過程を経ずして結果は出ないと同時に、過程がいかにお粗末でも結果さえ良ければ、まぁ何とかなる。
だけれども、勝負するレベルが上れば上がるほど、過程がお粗末じゃ勝負にならない。
ごまかすな、と言われてるかのように、一つ一つが繊細になる。
過程がどんどん上等なものになる。
世の中の色々な物事って結局そういう方向のような気がする。
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